自分に当たり前に自信のある人を見ると
ふと思ったんですけど、結局自分らしく楽しい人生を送るために必要なことは、「自分のやっていることに胸を張ること」なんだなぁと。
自分のやっていることについて、堂々としていること。
自分のやっていることを「どうせこんなしょーもないこと・・・」とコソコソ隠したり、後ろめたさを感じたりしないこと。
それをやっていることが周りにどんなふうに見えていたって、「え?それがなにか?私は楽しいですよ?(・ω・)」と涼しい顔が出来ること。
そして、こういう振る舞いが自然に当たり前のように出来る人を見ると思うんです。あぁ、この人はしっかり自分に自信があるんだなぁと。その自信につながる「基底的自己肯定感」がしっかり満たされて生きてきたんだなぁと。
・・・いきなり専門用語チックな言葉ですみません(´д`)あとで言及しますのでとりあえず先へ進みましょう。
大事なのはベースの部分の自己肯定感
世の中には、上に書いたような「自信」のある振る舞いがデフォルト・無意識で出来る人と、そうでない人がいます。
そこが何で分かれるかは、本当のところは多分わからない。元々そういう特性なのかもしれないし、育った環境なのかもしれないし。またはその両方という可能性も。
でも何が原因かはわからないけど、自信につながる「基底的自己肯定感の器」がしっかり満たされた人と、残念ながら満たされないまま大人になってしまった人の2パターンいるのは世の中を見ているとなんとなく感じます。
「基底的自己肯定感」とは、何かが出来る・優秀である・人から褒められた「から」という理由付きの自己肯定ではなく、基本的・土台の部分から自分を肯定できているという感覚のこと。
要はこのベースの部分から自分の肯定感が満たされていれば、他人の評価で自分がブレることが少なくなるんですよね。他人が何を言おうが、自分は自分だ、って思えるから。というか、そんなの当たり前すぎて思ってすらないかもしれない(・ω・)
※この概念にピンときた方にはコチラの本がオススメ。この記事を書いている現時点で個人的読んでよかった本ベスト1に輝いてます↓
「まだやれる!」と「いや無理でしょ」の狭間で
私自身はと言うと、「あぁ、この人はしっかり自分に自信があるんだなぁ。基底的自己肯定感がしっかり満たされて生きてきたんだなぁと」他人を見て思うということは、自分にはそれがないって思ってるんですよね、まだ(´д`)
こんな風に他人を見てうらやむような気持ちが出てきているということは、私はまだまだ全然満たされてないんだなって。
でも、うらやんでイジけているだけなのもなんとなく癪なので、色々とジタバタもがきながら進んでみたりするけど、やっぱり上手くいかなくて挫折したりすることも多くて。
その「私だって今からでも自己肯定感満たせるはずだ!」という気持ちと「そうはいっても自尊心傷つけられずにここまで来た人にはどうしたってかなわねぇよ」という気持ちの間でまたゴロゴロ転げまわったりしてね。もう痛ぇよ(ノд`)←
それでも行動することを止めちゃったらそこで終わりなので
でもこのゴロゴロ転げまわるのすら諦めてしまったらホントにそこで終わっちゃう、ってのもなんとなく感じるので、今日もまた自分の肯定感取り戻すために、ちょっとずつ出来ることから行動するのです。
そう、結局現状を変えようと思ったら、行動し続けるしかないんですって↓

まぁ行動自体がシンドイ!!ってときも正直めちゃくちゃあるけど、実は「しっかり休む」というのも行動の一つ、ってことを思い出すとよいかもしれない、と休み取るのド下手糞マンの私は最近自分に言い聞かせるようにしてます(゜д゜)←
そういえば前にこんな記事も書いたことあったし↓

こんな「叶え癖つける!」宣言もしたし↓

やりたいことリスト100も作り直したし↓

千里の道も一歩からってね。
っというわけで内部リンクがっつり貼り終えたところで(漏れる心の声)、諦めたらそこで試合終了ですよ(`・ω・´)って安定の安西先生に締めてもらって今日はこの辺でおしまい。
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