ほめられ続けることで自信を無くしていった私。自己否定の謎のヒントを「嫌われる勇気」に見た。

自己否定・自己肯定感

長年の疑問のヒントがアドラー心理学にあった

私はずっと不思議でした。

子供の頃からあんなに褒められて育ったのに、なんで私はこんなにも自信がないんだろう?なんでこんなにも自分のことを認められないんだろう?

ってことが。

親からしきりに罵倒されたとか、ひどい虐待を受けていたとか、周りにいじめられていたとか、そういう経験があったから自信を無くしてしまったんだ、という話はよく見かけるけど、私にはそこまでの経験はありません。

むしろ親からは褒められ、賞賛されることが多かった子供時代だったのに、なぜうつ状態に陥ってしまうくらい自分のことを否定せずにいられないんだろう??

その長らくの疑問にヒントを与えてくれたのが、あの「嫌われる勇気」でした。

ほめることは、相手の自尊心を削ぐ行為である

この本の中に、こんな一節があります。

ほめてはいけないし、叱ってもいけない。それがアドラー心理学の立場です。

(中略)

ほめるという行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面が含まれています。

(中略)

つまり、「えらいわね」とか「よくできたわね」、「すごいじゃない」とほめる母親は、無意識のうちに上下関係をつくり、子どものことを自分よりも低く見ているのです。

p.197 横の関係について

また、こんな一節もあります。

人は、ほめられることによって「自分には能力がない」という信念を形成していくからです。

(中略)

もしもあなたが、ほめてもらうことに喜びを感じているとすれば、それは縦の関係に従属し、「自分には能力がない」と認めているのと同じなのです。ほめることとは「能力のある人が、能力のない人に下す評価」なのですから。ほめてもらうことが目的になってしまうと、結局は他者の価値観に合わせた生き方を選ぶことになります。

p.202 勇気づけについて

そう、アドラー心理学では、誉めることは相手と自分の間に上下関係を作り、相手の自尊心を削ぐ行為だとして明確に否定されています。

この指摘は、私にとっては目から鱗でした。

まさに本の通りに「ほめられること」を目的にしていた

まさか、自分の肯定感を作り上げてきたと思っていた「能力を褒められる」という行為が、逆に自尊心をごっそり削り取る結果に結びついていたなんて。最初にこの部分を読んだときは衝撃でしたが、ただ同時に、深い納得も得ました。

思い返せば、「優秀ないい子」であった私に親や周囲の人からかけられる言葉は、ほとんどすべて先に引用したような「えらいわね」「よくできたわね」「すごいじゃない」というものでした。

周りの友達も、なんでそんなに何でもできるの?とか、さすが天才やな、とか、色んな事を言ってくれました。もちろんみんな善意で言ってくれていたのもわかっています(嫉妬に近いネガティブなものも一部ありましたが)。

初めは私もまんざらでもなかったと思います。ほめられることが嬉しかったのもたしかです。そこからはまさに本に書いてある通りに、無意識に「人からほめられること」を目的として、他人の価値観に沿いながら生きることを選ぶようになりました。

「認められているのは私の能力であって、私の存在ではない」という思い

ですがそうやってほめられることで快楽を得る一方で、私は次第にこのような周り人達の反応に違和感を持つようになりました。具体的には、

あぁ、この人たちは私の「能力」を見ているだけなんだ。望まれているのは私の「能力」なんだ。「わたしそのもの」を見てくれてる、望んでくれてる人はいないんだな。

といった深い寂しさを、ほめられるたびに抱くようになりました。

外面の自分と内面の自分が分離しているような違和感。

何でもできる秀才という「肩書き」だけがほめられ、認められているような虚無感。

どうせ私は「人よりできる能力」を認められているだけであって、私の存在そのものに目を向けてくれる人なんていないんだという孤独感。

これが小学校入学から、少なくとも高校卒業までの12年間、下手をすればそれ以降もずっと私の心の中に降り積もっていたのだと、20代半ばを過ぎてようやく自覚しました。

いまだに恐怖や罪悪感は拭えていないけれど

このように私は「能力を褒められ続ける」ことによって「自分の存在への自信」をなくしていったのです。

さらに能力を褒められる一方で、人より出来てしまうことで嫉妬や反感も少なからず買っていたと思います。

出る杭は打たれるという学校特有の空気の中、人が出来ないことが自然に出来てしまった時の何とも言えない罪悪感。これもまた、自分が小さく小さく縮こまっていく要因にもなりました。

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この降り積もった罪悪感と孤独感、目立つことで攻撃された恐怖をずっと抱えているから、私は今も突き抜ける事が怖いです。目立つことが怖いです。

でも、これを何とかしないとずっとこのままだ、それだけは嫌だ、という思いも同時に持っています。これは私のわずかな希望です。

今の私はその気持ちを頼りにしながら、ブログを書くという一見「目立つことが怖い」という気持ちと相反する行為を通して、少しずつ鬱積した感情を消化しているのです。むしろ相反するからこそ意味があるとも思っています。怖いけどやる。それが自分が変わるために必要なこと。

そしてそれが、同じ痛みに傷ついて自分を押し込めてしまった誰かにもきっと届くと信じて。

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