私はいまだに、昔「自然とできてしまう」ことで痛い思いをしたことを引きずっているんだなぁ

自己否定・自己肯定感

F太さんのツイートが胸に刺さって号泣した昼下がり

今日のお昼に何気なくTwitterを眺めていたら不意にF太さん(@fta7)のツイートに泣かされてしまいました(´;ω;`)

F太さんのツイートの、「昔『自然とできてしまう』ことで目立ってしまい、痛い思いをした人」に私がそっくり当てはまっていたから。

 

出来てしまう自分へのいたたまれなさをずっと感じてきた

「『勉強できる子卑屈化社会』を読んでみたら、たいへんなことになった」という記事でも書きましたが、私はかつて「勉強出来てしまった」子供の一人でした。出来てしまった、と書くのは、未だにそんな自分への罪悪感を拭いきれずにいるからです。

「勉強できる子卑屈化社会」を読んでみたら、たいへんなことになった(1)
勉強できる子卑屈化社会、読了。 前川ヤスタカ氏の著書、勉強できる子卑屈化社会。 もう出版から半年以上たってますが・・・ ずーっと読みたくてやっと手に入れることが出来たので、カフェに籠って一気に読みました。文字が大きいの...

勉強ができる、先生から褒められる機会が多いというのは、それだけクラスメートに妬まれる機会も増えるということ。

「勉強」という多くの人が苦戦していることを特に何の苦労もなくスラスラっとやってのけちゃうんですから、人によっては「何なんあいつ!」というような敵意を向けられることもありました。

でもそこで反撃は出来ないんですよね。何故ならそういう人たちの方が声が大きくて、スクールカーストは上位だから。変に刺激すると痛い目を見るのはこっちなんです。

だからできるだけ目立たないように、穏便に、息をひそめて過ごす。いい成績をとってもできるだけ隠すようにし、すごいね~と言われてもそんなことないよ~とヒヤヒヤしながら答える。

そんな感じで、自分が「出来てしまう」ことについてはずっと後ろめたさ、いたたまれなさを抱えて過ごしてきました。それはいつしか、自分が自分であることで不快な思いをするクラスメートがいるんだ、という申し訳なさに変わっていきました。

「自分は場違いである」という感覚が、自己価値観を損ねてしまった

少し話が変わりますが、心理学者・根本橘夫氏の著書、「『自分には価値がない』の心理学」では、自己価値観には子供の頃の養育環境で作られる「基底的自己価値観」と、周囲の評価や成功体験から得られる「状況的自己価値観」の2種類がある、と説かれています。

前者の基底的自己価値観は、文字通り自分には価値があるという思いのベースになるもので、これがグラグラだといくら成功体験を積んでも真に自分を肯定することが出来ません。

そして、この基底的自己感を作る条件は、以下の3つ。

①子供が安心を得ていること
②子供が適合性の感覚を得ていること
③無条件に親から歓迎されているという実感を得ていること

それぞれの説明は長くなるのでまた別記事で紹介するとして、今回は②の「子供が適合性の感覚を得ていること」に注目。

言葉が難しいですが、平たく言えば自分が外界と上手く調和出来ている、場違い感を感じていない、ということを表します。

 

これが私の場合メタメタにダメだったんだね・・・(´・ω・`)←

 

「自分が自分であることで不快な思いをするクラスメートがいるんだ、という申し訳なさ」は、場違い感に他なりません。周りと比べて自分が「出来すぎる」こと、それに対して罪悪感を抱くことは、知らず知らずのうちに自分のありのままを否定することに繋がっていったのです。

大丈夫。あなたはもう、目立っていい。

この古傷を癒すには、正直まだまだ時間がかかりそうです。ですがこうやって自分の無価値観の要因になっていそうなものを発見し、整理して言葉にしていくことが、このモヤモヤ少しずつでも消化していくのに必要な道のりなんでしょうね。

「大丈夫。あなたはもう、目立っていい。活躍していい。好きな舞台を選んでいい。」

この言葉、しっかり胸に抱きとめます(´;ω;`)負けるもんか・・・!

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