↑前回の記事では、私の孤独への固執の出所として「親」という点を考えてみました。次は二つ目の「学校」についてです。
もくじ
「出来てしまう自分は異常」という自己否定
私はなぜか、勉強でも運動でも芸術でも何でもかんでも、人並みもしくはそれ以上にそつなくこなしてしまう子供でした。何でもできるやん!天才やな!と周りからは評価され、生徒からも先生からもそれなりに目立っていたと思います。
でも好成績がとれるなど「出来ることの恩恵」を受ける一方で、「出来てしまうことへの罪悪感」もかなり強く感じていました。
なんでそんなに出来るの?と聞かれてもわかりません。だって出来ちゃうんだもの。・・・というのが本音ですがそんなことを言おうものなら確実にクラスでハブられますので、周りの機嫌を損ねないように細心の注意を払って、必要以上に目立たないようにビクビクしながら小さくなって生きる。それが出来てしまう子が日本の学校で生き残る手段です。まぁそれでも勉強ができるというだけで勝手に真面目キャラというレッテルを張られて、調子乗ってるだとかイヤミだとか色々言われましたけどね。
クラスで誰も答えられなかった問題に最後に当てられて、正答してしまったときのバツの悪さといったら。あれ何なんですかねほんとに。結局勉強なんて出来たってしゃーねーじゃん!という空気が支配する田舎の学校では、勉強ができるマジメな子は「ええしの子」とかいって「ちょっとオカシイ」扱いされるんです。
まぁ詳しくは以下の記事を読んでください。このルサンチマンはここでいくら書いてもキリがないので・・・
「あなたは私たちとは違う」という周囲からの拒絶
で、ただ周りより出来るというだけで安易に「天才」とかいうイメージを持たれてしまうと、その瞬間自分はみんなの思う「普通」からははじき出されてしまうんです。
「misoさんは私たちとは違うからねー」って、友人からなんの悪気もなく何度も言われました。その度に、あなたは私たちとは違うんだよ、という拒絶をされているような気がしていちいち傷つきました。
いくらいやいや、私もみんなと一緒のただの一人の学生だよ、ただの一人の人間だよと思っても、向こうは既に「私たちと違って出来る人」というフィルターを通してこっちを見ているので聴き入れてくれません。こっちは一緒だよ、と思いたいのに向こうから壁を作られている感覚。(実際「普通」ではなかったんでしょうが、日本の学校で「普通じゃない」ことはあまりいい結果には結びつかないので、私は普通になりたかった)
あと「普通」じゃないと何が問題かって、悩みや考え事に共感してくれる人がいないんです。さっきの「正答してしまったときのバツの悪さ」なんてその最たるものですが、それに悩んでいると言っても理解してくれる人なんてほぼいません。いないどころか、「なんでそれが悩みになるの?」「おかしくない?」「気にする必要ない」「贅沢な悩みだ」と、悩みを持つこと自体を否定されるというもっと酷い事態に陥ります。
出来てしまうことが辛いだなんて言えば、「出来る癖にそんなこと思ってるなんてイヤミじゃね?」「出来ない人の気持ちも考えて」と言われます。そんなに恵まれた能力を持っているんだからそんなことで悩むな、という無言の抑圧でした。そしてそれを私も受け入れてしまっていました。こんなことを思う自分がおかしいんだと。社会の常識的に考えたら、自分の方がおかしいんだと。
この時、あなたにはあなたなりの悩みがあるんだね、とただ認めてくれる人がいればどれだけ救われたかと思いますが、過ぎてしまったことはしょうがありません。
近づこうとして傷つくなら、もうずっと独りでいい
そういう経験を積んだ私が「一人」というところに行きついたのは自然な流れだったと思います。近づこうとして拒まれるから傷つくのであって。私もみんなと同じ一人の人間のはずなのに、「普通じゃない」と言われることに心の中でずっとストレスを溜めていた。
だから、もう一人でいい。どうせ私の気持ちなんか誰もわからないし、わかろうとしてもくれないし。周りの人は私の「できる能力」に興味があるだけで、私自身を人として見てくれてるわけじゃないんだから。近づこうとして寂しさを感じるくらいなら、ずっと独りでいい。周りの人なんて頼りにならない。自分を守れるのは自分だけなんだ。
というわけで、
・親を安心させるには、一人きりで生きられるようにならないといけない。
・どうせ自分の気持ちを分かってくれる人はいないんだから、一人でいる方がいい。
・どうせ私は「普通じゃない」んだから、普通に混じろうとしても傷つくだけ(※でも「普通じゃない」こと自体にも罪悪感を持っている。普通じゃない=平均から外れている=悪いこと」という刷り込みがあるから)
・周りは敵だらけだから、最終的に自分を守れるのは自分しかいない。
という「独り」への執着を持つに至ったのです。かれこれ20年以上も固く握りしめて生きてきたので、ちょっとやそっとじゃ全く変えられなくて結構ツラいです(´д`)。
結局は、ネガティブも含めたありのままの自分を認めてほしかった
でも、こうやって書き出して客観視して思うのは、結局私はありのままの自分を周りに認めてほしかったんだけなんだなぁと。
周りよりいろんなことが出来てしまっても、それなりに悩むことくらいあると知ってほしかった。「出来てしまう」ことで感じる罪悪感や寂しさを理解してほしかった。理解までいかなくとも、せめてそれを感じることくらい許してほしかった。私も貴方たちと同じ人間だと認めてほしかった。私は私のままでいいと思わせてほしかった。
「してほしかったこと」はもう解決できない欲求なので考えるべきはこれからのこと、というのは重々承知なんですが、この過去の欲求をちゃんと認めてあげないと未来を考えるプロセスには進めないのでざっと列挙してみました。あーつらいつらい。共感してくれる人、どこかにいますかね?いたらぜひこっそり教えてください。
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