これを書いてる今から10日ほど前、私はとあることからひどく落ち込んでしまいました(´・ω・`)
「あぁー、私の最近の言動は、何もかもが言い訳がましいなぁ・・・」
って(´・ω・`)
もくじ
自分の意志や考えはどうせ否定される?
最近自分が言うことやることひとつひとつに対して、もっともらしい理屈をつけて、なんとか人の賛同を得ようと躍起になっているなぁって思ったんですよ。
例えば私はこのブログに、自分の過去のうつ症状やそれについての考察、自分の生き方についての悩みやそこから得られた学び、などをかなり赤裸々に書き綴っています。
これは私なりに自分の課題を克服するためにやっていることであり、「気持ちの吐き出しと整理」「問題の分析と考察」「得た気付きを同じように悩んでいる人に届ける」という目的も自分なりに設定したうえで、こういった活動をしているわけです。
でも、そういう自分なりの哲学というか、自分の意志みたいなものって「どうせ理解はしてもらえないし否定されるんだろうなぁ」って、心の奥底で思ってるみたいなんです。この感覚が、どうにもいつまでたっても抜けない。
「そういうの(弱音とか、親への我慢あれこれとか)は書くべきじゃない、って思われてるんだろなぁ」とか、「どうせただの愚痴だと思われてるんだろなぁ」とか、「ぐずぐず愚痴ってる暇があったら行動しろよ、みたいなことを思われてるのかなぁ」って、そういう恐怖がずっと頭をよぎって、消えないんです。つらひ(´・ω・`)
自分の考えを表明しただけで強烈な罪悪感に襲われた
でもなんとかこの恐怖を打破したいと思って、何度か挑戦はするんですよ。
こないだも「私にはこういう考えがあるから、あえて赤裸々な文章でも公開してます!」っていう旨のつぶやきをTwitterで流したんです。
でも、それがものすごく「言い訳がましいなぁ」って自分で思ってしまって。そしてその直後から気分が急降下。久しぶりに強い抑うつが来たな、と思いました。なんで私、こんなに皆に言い訳してるんだろう?なんでこんなに自分のことを必死に弁明しなきゃいけないんだろう?
別に間違ったことをしているわけでもないのに、ただ自分の価値観や意志に則って発言しただけなのに、別に誰からも何も言われてないのに。
そんな葛藤をぐるぐるやっているうちに結局自責の矛先が自分に向き、「私はなんてことをしてしまったんだ」と涙が出てきてしまい、2日ほど何もやる気が起きなくなりました。
結局そのツイートはすぐに削除し、それからは徐々に落ち込みは回復しましたが、元に戻るまでちょっと時間がかかりました。
罪悪感が強すぎるから「言い訳」したくなる
この出来事からまたいろいろと考えてみたことを書いていこうと思うんですが。
そもそも「言い訳」って、「自分が悪いことをしている=罪悪感」を前提にやるものなんですよね。罪悪感がない人は言い訳なんかしないですし。
で、私の「言い訳」の具体的な中身って結局、
「私のやっていることは、あなたからしたらちょっと変に感じたり、心配を掻き立てられたり、ちょっと物言いしたいな、と思うようなことかもしれないけど、私は私なりに色々と考えて自分の意志を持ってやっていることだし、それに賛同してくれる人や励まされたと言ってくれる人もたくさんいるから、心配しなくて大丈夫だからね!!私は大丈夫だから、そこで見ててね!!これが今の私のやりたいことだから、一旦は私が思うようにやらせてほしいんです!!!」
ということなんですよ。必死か(・ω・)
でもこうやって必死になって理屈こねて弁明して、「そういうことなら、わかった、いいよ」って誰かが言ってくれるのを待ってる。ずーーーっと誰かの許可を待ってる。
多分「親に心配して手出し口出しされたくない」が根っこ
まぁお察しの通り、この「許可をしてほしいだれか」は、親のことを投影してるんですよね(・ω・)
基本的に、許可がないと動けない。動いちゃいけない。という関わり方をされてきたので。何をするにも親にいちいち聞いてから行動していた子供の頃の私・・・↓
また、「心配しなくて大丈夫だからね!!私は大丈夫だから、そこで見ててね!!」は、誰よりも自分の母親に対して言いたかった言葉なんだろうなと思います。何でもかんでも先回りして、失敗しないようにお膳立てされ続けた子供の頃の私・・・↓
私にとって、母親にされて一番堪える罰は、怒られるでもなく小言を言われるでもなく「心配そうな顔をされる」こと。
「あなたほんとに大丈夫なの??」「お母さん心配だわ」って顔を何百回も何千回もされたら、うんざりしません?どんだけ信用されてないねん、って。
このお母さんの心配そうな顔の記憶が、多分心の奥底にこびりついている。自分の頭で考えるだけではどうにも届かないところにあるから、何度も何度も繰り返してしまうのかなぁ・・・(´・ω・`)
他人の意見が気になって自分を曲げてしまう癖
先の言い訳の話に戻りますが、うまく賛同を得られればほっと胸をなでおろします。
でも「胸をなでおろす」ということは、そもそも賛同が得られること前提で臨んでいるってこと。正解と思わしき答案を先生の所にもっていって、赤マルをつけてもらってほっとする感覚に似てます。
逆に賛同が得られなければかなり傷つき、落ち込みます。そして厄介なことに、「賛同されない=間違い」だと判断し、おとなしく引き下がる、というというのも癖づいているようです。
本来、自分の好きなことや価値観、やりたいことや意志に正解も間違いも無いはずで、他人にとやかくいわれたからといって自分を曲げなければいけない事の方がおかしいはずなんです。
でも私の場合、自分なりに考えて自分の意志を通した答案でも、他人から「間違いだ」と少しでも言われればそれは間違った答案になってしまう。それくらい脆いし、全然自分がない。・・・いや、多分自分はあるんだけれど、それを押し通すことに対しての罪悪感がものすごい。
そして最終的にその罪悪感に負けて、自分の言葉や行動を撤回。もうそこでは「やりたかったこと」は出来ない、と判断して、そっとそのコミュニティを去る。
いまだにほとんどすべての行動選択において、わたしはずっとこんな感じだなぁと、遠い目をしてしまいました・・・(´・ω・`)
もうちょっと書きたいことはあるけどまとめるのが難しいのでいったんこの辺でストップ。続きはまた改めて書きますね。
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