日記を書き続けることは、自分の生きた証を記録に残すことだ

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ブログの毎日更新を始めてもうすぐ1年です

ブログの毎日更新を始めてもうすぐ1年が経とうとしています。

目標の470日連続更新まではまだもうちょっと距離があるけど、それでももう約7割を過ぎたわけで。

3年前の今日は私が会社員の肩書きを捨てた日 3年前の今日、2014年6月30日付けで、私は前職のIT企業を退職しました。 そこか...

いやはや、これまで過去に何度かブログを立ち上げては3日坊主になってしまった経験がある身としては、ここまで毎日続けられているのはすごい進歩です。

最近はさすがにネタが尽きてきたり、体調の悪さが相まって書くエネルギーが湧かなかったりで記事のクオリティが少々失速気味なのは否めないけど、それでもとにかく「毎日更新し続ける」ことは死守しています。

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自分が書いてきた文章は、自分が生きてきた証そのもの

でもクオリティがどうであろうが、こうやって毎日言葉を書き綴るって、実はそれだけでものすごく自分にとって重要な行為になってるなぁと最近思います。

以前までは、ブログという媒体を使う以上は記事のクオリティに気を遣って、人様の役に立つことを書かないとだめなんじゃ?ただの日記だったり、あまりにもどうでもいい内容は書いちゃダメなんじゃ?

そんな風に思っていたことがありました。いや、ありましたじゃなくて、今も書き上がった文章を見てはその出来栄えにげんなりすることはしょっちゅうなんですけど(´д`)

でもね、満足いくように書けた文章だろうが、その逆に一見何の役にも立ちそうにもない、他の人が見ても特に得るものなさそうな日記風の文章だろうが、別にそんなのどうでもいいんじゃないかな、とも思うようになってきて。

何故なら、自分が書いてきた記事ってそのまま自分が生きた証なんですよ。もうそれだけで、クオリティとか関係なく価値はあるんですよ。

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「たしかにその時、私は生きていたんだ」というのを実感できる

過去の自分が書いてきた記事をふと読み返したりすると、思うんです。

調子よくガンガン突っ走ってた日も、ボロ雑巾みたいにぐずぐずになって小さく丸まってた日も、死にたい死にたいって泣き喚いてたクソみたいな日も、なんだかんだ歯ぁ喰いしばって生きてたんだな、って。

普段そういうのって意識することないけど、たまに振り替えって昔の記事を読んでみると案外詳細にその時のことって思い出せるんですよ。そしてそれができるのは、やっぱり記録に残しておいたからであって。

言葉として書きつけておかなきゃ多分そのときの「私」はもうその時だけのもので、記憶の彼方に消えてしまっていたと思います。でもそうじゃなくて、ちゃんと文章に残ってるから、その時間はたしかに「あった」と実感できるし、その時間たしかに私は生きてたんですよね。

それが実感できるというだけでも、日記の力ってものすごいと思います。

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日記を書けば、その時の自分の存在を残すことが出来る

だからブログでも日記でも、チラシの裏の書きだめでもなんでもいいから、とりあえず自分の今について書き記しておく、というのは万人にお勧めしたい。

別に立派なことを言わなくたって、気付きや学びが全くなくたっていいんですよ。自分のために書くだから。なんなら「あ、この日のお昼ご飯はオムライスだったんだな」というのが思い出せる程度のものでいいと思います。

それだけで、その時間は刹那的に流れて消えてしまうものではなく、「オムライスを食べてその日を生きていた自分」として明確な実感をもって残るわけだからね。

やっぱり、日記はいいぞ。

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