例えば「私目が見えづらいんです」とか「私耳が聞こえにくいんです」だとメガネかけなよ補聴器つけなよ病院いったら?となるのに、「私うつなんです」とかだと甘えてる、ただの自称だ、とか言われる風潮があるのなんなんだろう?自分の意思でコントロール出来ないことで苦しんでるのは一緒なのに。
— カナミ(miso)@音楽アカ (@miso35_piano) September 14, 2017
かねてから感じている疑問。
目が見えにくい、という事に対して甘えだと言ったりする人はいないし、メガネをかけたり眼科に行ったりという対処に異を唱える人だっていない。
なのになぜ、心の病気に関しては「甘えだ」「自分で言ってるだけでしょ」という声が一向になくならないんだろう?
心の病気の苦しみは、残念ながら想像しにくい
一つ思ったのは、その症状がどれだけ困るもので、どれだけ辛いものか想像しにくいんじゃないか?ということ。
目が悪くて物が見えづらいというのはなんとなくイメージできるし、そりゃあ大変そうだよなぁ、というのも容易に納得できる。でも、「心がしんどくて身体が動かせない」というのは、実際になった人じゃないとなかなかその辛さをリアルに実感出来ないんじゃないか。
だから、そんなの自分の気持ち次第で何とかなるんじゃないの?という声が出てしまうのかな。その「自分の気持ち」を司る心に支障が起こってるから心の病気は厄介なんだけど。
自分の気持ちだけでは何とかならない
自分の気持ち次第で何とかなる、というのは、ある意味では正しい。専門用語で認知のゆがみを正す、というのだけれど、自分の物事の感じ方、捉え方を変えることで現実の見え方がガラっと変わるのは事実。
ただ、人の心には意識出来る領域と意識できない(無意識)領域があって、この「認知のゆがみ」があるのは無意識の領域にあることがほとんど。普通では自分の意志が及ばないところに問題があるから、自分の気持ち次第で何とかできないのがよくある実態なのだ。
だから心の問題に取り組むためには、精神科やカウンセラーなどの他者の力を借りたりするんです。安易に甘えだ、という言葉をかけてしまうと、自分を責めて、余計に自分の殻に閉じこもってしまって症状は悪化してしまう。
自分でどうにも出来ない所に手を入れる必要があるのだから、もっと他者に助けを求めてもいいような空気感を本来は社会全体が作らなきゃダメなんだと思う。
人の痛みに寄り添える人間になりたい
そういう「他者に助けを求めてもいいような空気感」というのを作るには、やっぱり想像力が不可欠だと思う。
その人がどれだけ辛いのか、どういうことで苦しいのか。完全に理解するのは無理だし、想像しにくい点も一杯あるけど、想像しようとする姿勢、寄り添ってあげようとする姿勢、なら誰だってできるはず。
そんな風に、人の痛みに寄り添えるような人がもっと増えれば、世界はもっと優しくなるのかなぁ。と思うと同時に、まずは自分がそんな人間でありたいなぁと思う今日この頃(´ω`)
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