アドラー心理学とユング心理学の違いを問題へのアプローチ方法から考えてみる(1)

心理学あれこれ

アドラー心理学が大流行したけど、従来の古典心理学も間違いではない

「嫌われる勇気」の大ヒットにより一躍有名になったアドラー心理学。

「人は目的を達成するために感情を使う」「トラウマなんて存在しない」など、フロイトやユングなどが大成させてきた従来の心理学とは真逆とも言える主張が特徴で、当時はその新しすぎる視点から“時代を100年先取りした心理学”と言われるほどでした。

「嫌われる勇気」が大ヒットしたのは、そのアドラーの思想に現代になってやっと時代が追い付いた、 ということなんでしょうかね(´ω`)

でもじゃあ、だからといってフロイトやユングの唱えていた古典心理学はまるっきり間違いなのか?と言われると、別にそういうわけじゃないと私は思うんですよね。

私は個人的にユング心理学への関心が高いのでそっち系の本もよく読むんですが、アドラー心理学と比較してみても、両方とも本質は一緒のことを言ってるような気がしてます。

一見相反することを主張している、違うことを言っているように見えるんですけど、見方・アプローチの方向が違うからそう見えるだけなんじゃないかなと、双方について勉強していると思うんです。

以下、まだ考えがまとまっていないところもありますが、自分のメモがてら記しておきます。

自我の回復プロセスにおいて、両者は使いどころが違うんじゃないか

ユング心理学とアドラー心理学の比較について、私が以前書いたこちらの記事に絡めて考えてみると↓

毒親育ちの子供に根付く親の価値観はタンポポのように根深くしぶとい。だからこそ「一旦」親のせいにするのが大事。
うつなどの心の問題には、必ずと言っていいほど「親」の存在が関係しています。 とはいえ、それに立ち向かっている人には「なんでも親のせいにするのはよくないんじゃない?」という言葉がたびたび投げかけられたりします。 親がとんでもない人だっ...

上記記事では、毒親に育てられた人が自我を育くんでいくプロセスとその難しさをタンポポの花に例えて説明しているんですが、そのプロセスには「親の植えたタンポポ(価値観)が自分のものじゃないと気付く」「親のタンポポを刈り取って、空いたスペースに自分の花を植える」という二段階が存在します。

結論から言うと、前半の「親の植えたタンポポが自分のものじゃないと気付く」のに有効なアプローチがユング心理学、後半の「親のタンポポを刈り取って、空いたスペースに自分の花を植える」のに有効なアプローチがアドラー心理学じゃないかな、というのが私の考え。

つまり両者の本質は一緒だけど、効果的な使いどころが違うという話です。

ユング心理学は今を起点に過去を探り、過去に原体験を見出す

まずユング心理学はいわゆる「精神分析」という類のもので、そのアプローチは自分の内面、過去の経験、無意識をどんどん深堀りしていくといった性質を持っています。

今の自分のこの辛さはなんだろう?という所から出発して、それに似たような経験や記憶が過去に存在しませんか?という質問を繰り替えし行って自分を深堀りしていくと、最終的にその辛さの一番最初のきっかけとなる体験(原体験)に気付いてラクになれる、というパターンが王道。

人って、原因がわかると安心する生き物なので、「あの時のこんな経験が今のあなたに影響を及ぼしているんだぞ!」というのがわかると不安が和らぐのです。

とくに精神的に追い詰められている人、深い傷を負っている人なんかは回復に向かうためのエネルギーさえ残っていなかったりするので、まずこうやって原体験を突き止めることで縛りを緩めるのがその後の回復のためには有効だったりするんです。この「原体験を探る」という時に力を発揮しやすいのがユング心理学のような過去を振り返るタイプのアプローチなんですね。

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