アドラー心理学とユング心理学の違いを問題へのアプローチ方法から考えてみる(2)

心理学あれこれ

アドラー心理学は「満たされなかった思いを満たすために現実を使っている」ことを教えてくれる

前回の記事はこちら(・∀・)↓

アドラー心理学とユング心理学の違いを問題へのアプローチ方法から考えてみる(1)
アドラー心理学が大流行したけど、従来の古典心理学も間違いではない 「嫌われる勇気」の大ヒットにより一躍有名になったアドラー心理学。 嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え posted with ヨメレバ 岸見 ...

じゃあ仮に原体験が分かったとして、「今辛いのは全部その過去の出来事のせいだ!」となるかというとそれはちょっと待った!なんですよ。ここからアドラー心理学の出番になるわけですが。

この「過去のこんな出来事」って多くの場合親への想いが絡んでいることなんですけど、これって何かって言うと「満たされなかった想い」なんですね。

もっとこんな風に接してほしかったとか、もっとほめてもらいたかったとか、もっと甘えたかったとか、そういう子供の純粋な「愛してほしかった」の欲求が満たされないまま大人になると、それを満たそうとするために現実を捻じ曲げ始めてしまう。これがアドラー心理学の目的論(ある目的を達成するために現実を使う)的な見方です。

この目的論をわかりやすく例えた話で「引きこもりの人は過去のトラウマや不安が原因で外に出られないんじゃなくて、不安を感じたくないから自ら外に出ない選択を無意識にしている」という話が「嫌われる勇気」の中で紹介されているんですが、これを先ほどの話に当てはめると「愛してくれなかったから今辛い、ではなく、本当は愛してほしいから原体験を言い訳にして辛い状態で居続けようとする」になるんですよね。めっちゃややこしいけど・・・(´д`)

親からの愛を実感するために、自分を抑え込む選択を続けてきた

自分の気持ちよりも親の気持ちを優先した方がほめてもらえる。辛いことがあっても我慢していた方がいい子だねって言ってもらえる。ちょっと病気や困ったことがあった方が、親は自分のことを気にかけてくれる。それを学習してしまった子供は、親からの愛を得たいがために自分を抑えこむようになってしまいます。

そうやって、「自分が愛されていると実感したいがために、自分の花よりも親のタンポポを優先してしまった結果」が今の現実なんですよー、そしてそんな選択をしてきたのは自分なんですよー、ということをアドラーは言ってるわけです。

タンポポの種を植え付けたのは確かに親なんですが、それをご立派に育てあげてしまったのは自分自身の選択の結果でもあるんですよってこと。(何度でも言うけど、自分自身が選んだ≠自分が悪い、だからね!その時の自分はそうせざるを得なかったんだよ!)

過去への想いを断ち切り、自分のために生きる勇気を与えてくれるのがアドラー心理学

親が満たされることが自分への愛の証明だ、と思い込んでしまっている人はこの罠に陥ります。だからタンポポを小さいうちに摘み取ることが出来ず、自分では手を付けられないくらい大きく成長させちゃうんです。

こうなってしまうとタンポポを刈り取るのってすごく勇気がいります。親のタンポポを大事に育てている限り自分を認めてもらえている、なので、タンポポを刈り取ってしまうことは「欲してやまない親からの承認」を自分で刈り取ることに等しいのです。だからいつまでも悩んでいたい。苦しんでいたい。その方がまだマシだから。という悲しく健気な生き方・・・

そこに一石を投じて、もうそんなことやめようぜ、いい加減自分のために生きようぜ、って言ってくれてるのがアドラー心理学のアプローチなんです。

双方のアプローチを知って、柔軟に思考していく

というわけで、ユング心理学とアドラー心理学のアプローチについて考えたことを書いてみました。なかなか上手く言語化するのが難しいテーマだったので上手く伝わるよう書けているか不安ですが・・・ひとまず頑張ってみました(`・ω・´)

書きながらも色々考えていたんですけど、ユング心理学は自分を深く知るための心理学、アドラー心理学はこれからの自分を創り上げていくための心理学、という風に言えるんじゃないかな、と途中でふと思いました。

今の自分を起点にして、ユング心理学的なアプローチが有効な場面とアドラー心理学的なアプローチが有効な場面、双方を意識しながら柔軟に思考していく、というのが今のところ自分にはしっくりくる考え方です(´ω`)

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