死にたいと思っていた人間が「100日後に死ぬワニ」を死なずに読み終えられてほっとした話

抑うつ

「100日後に死ぬワニ」を読み終わって気づいた自分の変化

日本中のツイッタラーが固唾をのんで見守っていた「100日後に死ぬワニ」が先日ついに100日目を迎え完結した。

商業展開やグッズ展開が早すぎるとかなんとかで最後の最後にかなり炎上してしまったようですが、それについてはこの記事はノータッチで、いつもどおり自分語りオンリーでいきますのでご安心を。感想と見せかけて感想ですらないです。

私も日本中の多くの皆さん同様、ワニくんの1日1日の更新を楽しみに過ごしてきた一人だけど、私はずっと「このマンガを読んでいる私自身だって、いつ死ぬかわからないし、なんなら明日にでも死んじゃうかもしれないんだよなぁ」ということを頭に浮かべながら読んでいた。

マンガの新刊や映画の次回作を楽しみに待つワニくんは、マンガの更新を楽しみに待つ私とそっくりそのままだから。

これを読んでいる自分自身も、ワニくん同様ある日突然死ぬことになってるかもしれない。自分はワニくんの100日目を見届けられる人間だ、なんて保証なんてどこにもないんだ、なんてことを感じながら1日1日読み進めていた。

そして先日めでたく(?)最終回を迎え、私は運よく100日間を生き延びられた人間になったことにとりあえずほっと胸を撫でおろしたのですが。

その瞬間、あることを思い出しました。

「あれ?でも私、数年前までしょっちゅう死にたいって思ってたのにな?」

いつのまにか「死にたい」と思わなくなっていた

私は2014年2月に軽いうつ状態になっていると診断をされ、そこから心身の状態はアップダウンを繰り返しながら、ようやくここ1年くらいで心身共にかなり安定した調子を取り戻した。(もう初診から6年も経っているということにビビる。そしてやっぱりちゃんと復活するにはそれくらい長い年月がかかってしまったんだなということにもビビる。)

特に2014年、2017年、2018年がアップダウンの「ダウン」の時期にいたので、これらの年が一番「もう生きたくない」という衝動が激しくなり、でも実際に死ぬのは痛そうだし怖いので一人部屋で泣き喚いて気持ちを発散させて耐え忍ぶ、ということを繰り返していた。ちなみに記録によると自分は2~4月が一番調子が悪くなりやすいらしい。

そこまで心身消耗していた人間が、今ではこんなに心穏やかにマンガの更新を楽しみに待ち、自分が死なずに完結を見届けられたことにほっとしている、いうことに気付いたとき、なんとも形容しがたいヘンな気持ちになったのだ。

おそらくそれだけ、あんなに身近に自分の傍にいた「死にたい」という気持ちがいつの間にか少しずつ自分から遠くなり、過去のものになっていたんだと思う(あくまで思う、だけど)

この時に初めて、自分がもう「死にたい人間」ではなく「死にたかった人間」にジョブチェンジしていたことに気が付いた。

まぁそれこそ、今後また夢にも見なかったタイミングでその死にたいくんが「また来ちゃった♡」なんて顔を出す可能性はゼロではない、むしろ再来訪の確率はうつを発症したことがない人に比べてずっと高いらしいので、コイツとの共存はうつ状態を一度でも発症してしまった人の宿命みたいなもんだとも思ってるんですけどね。

でもとりあえず、今の私にとっては、死にたい気持ちはもう遠くの景色を見るような感覚で距離を取って眺めるようなものになった。

回復するには「運」も重要な要素だった

こういう風に「ダウン」状態から距離を置けるようになった要因ってなんなのかな、って少し考えてみた。おそらく大きく影響したのは

  • ストレスがかかるような仕事や人間関係から離れた
  • 経済状況が少しよくなった
  • 自分をそのまま受け入れてくれる人、コミュニティを見つけた
  • 何もしていない自分でも許してくれる人、コミュニティを見つけた
  • そんな何もしない自分を自分で受け入れられるようになった
  • 自分の中の親への感情にいい意味であきらめがついた

これらはお互いに要因でもあり結果でもある、相互に作用しあっているものだと思うので、また改めて丁寧に分析してみてもいいかもしれない。

でも一つ思うのは、こういう風な自分にとって良い影響を与える要因を揃えられたのは、もちろん自分を信じるとか自己肯定感を上げるとか、自分の自分に対する姿勢は大事だけど、それと同じくらい「運」の要素もめちゃくちゃデカいってこと。

特に自分と相性のいい人やコミュニティと出逢えるか、なんて、はっきり言って運でしかない。いざ目の前にそういうものが現れたときに飛び込んでいける勇気を育てるとか、情報収集して常にアンテナを張っておく、というところまでは自分の力が及ぶことだけど、実際にアンテナにかかってくれるかどうかまでは自分では左右しようがなかった。

でもここで言いたいのは運がない奴はオワコン、ということではなくて、もし今死にたい気持ちに苛まれていて、自分に自信がなくて、自己肯定感も低くて、何回も自己肯定感を上げようとしてるのになぜかうまくいかない、という数年前の私みたいな人がいたら、全部が自分のせいというわけじゃなく、半分くらいは「運」のせいだと思っていいと思う、ということ。

というか、そこまで自己肯定感を下げざるを得ない状況に生まれ落ちたこと自体、運要素満載のガチャだったのかもなー。ということが最近少しずつ理解できるようになってきた。

うつの時は全部自分が原因だと思っていた

逆にうつ症状が出ていたころの自分は、自分がうつになったのは自分の心に問題があるからで、自分が上手くいかなかったのは自分の努力不足のせいで、夜中なかなか眠れないのは自分の日中の過ごし方が良くないせいで、なかなか完全復活出来ないのも休息や自己分析や心に関する勉強が足りてないからだと思っていた。

もちろん、それらも要因のひとつではあるかもしれないけど、自分の認識ではこれらが原因の100%だと思っていた。

もっと自分を甘やかして休みなさい、と言われて、でも休みかたが下手くそで、上手く休めないからいつまでも回復できない自分を責めた。

頑張りすぎ、と言われて、でも自分が頑張ってるのかそうじゃないのかもはやわからなくて、わからないからやっぱり頑張り続けるしかできなくて、そのうち電池切れしてまた自分を責めた。

そんな風に、上手くいかないのはいつも「自分の力が至らないから」、それ以外の理由があるなんて発想すら浮かばない状態だったんだと思う。

でも、実はそれが100%じゃなかったのかも?もちろん自分の力不足もそうかもしれないけど、自分にはコントロールしようがなかった要因も実は50%くらいあるのかも?

そういう発想に出逢って、それを少しずつ受け入れる練習をしたくらいから、ちょっとずつ変わっていったのかもしれない。(受け入れる練習、というのは、変な話だけど「自分のせいじゃなかったかもしれない」を受け入れるのにもかなりの葛藤と勇気が必要だったので)

同じように悩む人の助けになりたいとは思うのだけど

私がこのブログを始めたのは、自分が悩んだり葛藤したりした経験を記録に残して公開することで、どこかの知らない誰かの役に立ってくれたらいい、特にメンタルの落ち込みや自己肯定感に悩む人のヒントになってくれれば嬉しい、という理由が大きい。

自分の歩む過程ごとコンテンツにしてしまえば結構有用なものが出来るんじゃないか?と当時は思っていたけど、実は皮肉なことにいざ回復をし始めてしまうと、どういう言葉が人の救いになるのか、経験があるだけに余計にわからなくなってしまった。

今まさに苦しんでいる人に元気な人が真正面から「立ち直るにはこうしたらいいんだぜ!」なんてアドバイスめいたことを書いたところで、キレイごとにしか聞こえない、自分だって「そっち側」に行きたいけどそれが出来ないからこんなに辛いんだよちくしょう、と思われて終わり、という可能性が大いに高いから。まさにかつての自分のことなのだけど。

私もそんな風にかつてはちくしょう、と思っていた側の人間で、でもいつのまにか知らない間に「そっち側」に来ちゃってたみたいで、そんな今の私が元居た場所の自分に何か伝えるとしたら?をブログのためによく考えるんだけど、当時の自分の経験があるからこそなんて言ったらいいのか正直全然わからない。最近ブログから足が遠のいてたのは単純に忙しかったという以外にも実はこういう理由があったから。

当時の自分からしたら、今の自分が言うことも全部上から目線の「そっち側」の人間のキレイごとに変わりないんじゃないか?ましてや「あなたもいつかきっと元気になれるから大丈夫!」なんて言葉、無責任すぎてとても言えない。

だってそれを克服できるかどうかは自分の力半分、運要素半分だから。今の私はそう思う。今の私は「運よく」「そっち側」に来れたんです。

・・・まぁでも、「そっち側」に行けるかもしれないし、行けないかもしれないけど、行けないのは決して自分だけのせいじゃなく、環境とか人とかタイミングとか、そういうもの次第でもあるから、今はそっち側に行けない自分でもまぁいいか、って自分に思ってあげられるといいね。

っていうのは伝えても大丈夫だろうか。

結局どういうことが改善につながるかなんて千差万別で、それに出逢えるタイミングも人それぞれ。だから数あるケーススタディの中の一つとして、とりあえず私は運よくトンネルを抜けたっぽいです、それには私の場合これが良かったみたいです、という事実だけ置いておいておくことが、今の私に出来ることなのかな。

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