抑うつ状態でもピアニスト名乗っていいじゃない、とようやく思えるようになってきた

アクションを起こす

中途半端なままで生きてもいい、という記事に心うたれる

感銘を受けているのはこちらの記事。「『中途半端な奴らが中途半端なまま生きることが許される社会』しょぼい喫茶店が始めた小さな挑戦。」

「中途半端な奴らが中途半端なまま生きることが許される社会」しょぼい喫茶店が始めた小さな挑戦 (2018年4月4日掲載) - ライブドアニュース
東京・新井薬師にあるビルの一室に突然オープンした「しょぼい喫茶店」。就活に失敗し、うつ病にも苦しんだ現役大学生・えもいてんちょうさんがスタッフのおりんさんとともに3月に起業したこの店は、早くもさまざ

鬱なまんまピアニストやってもいいのかも?

昨日書いた記事の「周りの勝手なイメージに縛られる」話にも通じる話なんですが。

割と長い間、私がモヤモヤと悩んでいたことです。

日本には「可哀相な人らしくしていろ」という無言の圧力が存在する

日本では「大人としてあるべき姿」「男として・女としてあるべき姿」というように、属性や就いている職業、肩書きに「あるべき姿」という目に見えない縛りのようなものが存在しています。

「そういうの好きなんだ、なんか意外。」と言われたときの罪悪感にあなたは打ち勝てるか?
「そういうの好きなんだ、なんか意外。」 私は、自分で言うのもなんですが、地元の学校では「相当デキる」部類の子供でした。 所詮田舎の学校の中での比較なので、全国区で進学校に行った人なんかと比べ出すとそんなでもないんでしょうが、それでも...

で、これってこういう縛りって「ただの立場」だけに留まらず、しばしば災害や病気などのネガティブなアクシデントに見舞われた人にも無慈悲に襲い掛かります。

例えば、震災に見舞われた人はいつまでも「被災者らしく」悲しみにくれ続けていなくてはいけない。

例えば、家族を亡くしてしまった時に少しでも前を向こうと、気を紛らわそうと明るく日常を過ごそうとすると「不謹慎」。

例えば、うつ病から少し回復してきて、外を散歩したり好きなことに手を付けられるようになったら「なんだ、普通に過ごせるじゃん。病気とか言ってただの甘えなんじゃないの?」。

つまり、不幸にあったなら不幸人らしくしていろ、病人なら病人らしくしていろ、可哀相な目にあったんなら可哀相な人らしくしていろ、という無言の圧力。この社会に生きてきて、感じることはありませんか?

人前にいるときの私と、一人でいるときの私のギャップを知られるのが怖かった

私はずっと、「ピアニストなのに抑うつ」というのが心に引っかかっていました。自分のやっていることを、どうも堂々とまわりに公言出来なかったり、告知をするのが後ろめたかったりすることがあったのですが、一つの要因がこれです。

人前ではまったくの普通に振る舞えます。演奏中は笑顔で明るいですし、演奏の合い間にはお客さんと普通にお喋りもできる。つまり抑うつにかかってる人間らしくない。

でも、その裏で家に返ったらもう無気力になって、ベッドに倒れ込んで何もできない自分も確かに存在します。ふとした時に理由もなく泣きたくなって部屋で一人欝々と過ごしている日もたまにあります。そんな風に、人といるときと一人でいるときのギャップが激しいんです。

で、このブログはどちらかというと一人でいるときの私の内面が色濃く出ています。だから、表ばかりを見せてきた人にはここを見られるのがとても怖かった。「げ、あんなに明るく喋ってたのにめっちゃ病んでる人やんww」「めっちゃ病んでるブログ書いてるけど、実際は普通に振る舞えるんやしただの被害妄想やろww」と思われてそうな気がしたから。

まさに、周りの人が思うイメージに振り回されている典型例でした。

もうイメージの幻想にとらわれなくてもいいんじゃないかと思えてきた

でも、先の記事を読んで、もうどうでもいいような気がしてきました。だって、私は私だもの。そんな幻想に縛られて自分を出せないでいるのは、とてももったいない気がしてきた。

 

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