もくじ
中途半端なままで生きてもいい、という記事に心うたれる
うわーこれは刺さる。ものすごい救いだわ…ありがとうございます…(´Д` ) https://t.co/vOtkqiqhPq
— miso@8/3 LE音楽会 (@miso35miso) April 19, 2018
感銘を受けているのはこちらの記事。「『中途半端な奴らが中途半端なまま生きることが許される社会』しょぼい喫茶店が始めた小さな挑戦。」
やっぱり私はまだ心のどこかで「立派な人間でなくちゃいけない」っていう思考が抜けてなかったんだな…実際無駄にエリートとして育ってしまったのも相まって…
でも、この記事を読んで気付かされた。そうか、そのままで生きててもええやん、って。
— miso@8/3 LE音楽会 (@miso35miso) April 19, 2018
鬱なまんまピアニストやってもいいのかも?
ピアニストとして人前でパフォーマンスすることと、今でも抑うつ状態から抜け切れていないことが、ずっと「あってはいけないギャップ」として自分の中から拭えていなかった。
でも先の記事を読んで思った。鬱なまんま堂々とピアニストやってていいんじゃない?って。
— miso@8/3 LE音楽会 (@miso35miso) April 19, 2018
「あってはいけないギャップ」として認識してた理由を考えてみた
・人前に出る仕事である以上暗い姿は見せてはいけない
・抑うつであることを知られると、腫れ物に触るかのような反応をされるかもという恐怖
・「ちゃんと人前に出れてるんだし、ただの言い訳じゃないの?」と思われる恐怖— miso@8/3 LE音楽会 (@miso35miso) April 19, 2018
でもこういう声って、「うつってこういうものなんじゃないの?」という勝手なイメージが作り上げた幻想なんだね。
でも今の社会はこの幻想を真実として捉える見方・中身を見ずにイメージや立場だけでものを語る見方が当たり前になりすぎてるから、幻想だと気付けずにとらわれてしまうんだね。
— miso@8/3 LE音楽会 (@miso35miso) April 19, 2018
昨日書いた記事の「周りの勝手なイメージに縛られる」話にも通じる話なんですが。
割と長い間、私がモヤモヤと悩んでいたことです。
日本には「可哀相な人らしくしていろ」という無言の圧力が存在する
日本では「大人としてあるべき姿」「男として・女としてあるべき姿」というように、属性や就いている職業、肩書きに「あるべき姿」という目に見えない縛りのようなものが存在しています。
で、これってこういう縛りって「ただの立場」だけに留まらず、しばしば災害や病気などのネガティブなアクシデントに見舞われた人にも無慈悲に襲い掛かります。
例えば、震災に見舞われた人はいつまでも「被災者らしく」悲しみにくれ続けていなくてはいけない。
例えば、家族を亡くしてしまった時に少しでも前を向こうと、気を紛らわそうと明るく日常を過ごそうとすると「不謹慎」。
例えば、うつ病から少し回復してきて、外を散歩したり好きなことに手を付けられるようになったら「なんだ、普通に過ごせるじゃん。病気とか言ってただの甘えなんじゃないの?」。
つまり、不幸にあったなら不幸人らしくしていろ、病人なら病人らしくしていろ、可哀相な目にあったんなら可哀相な人らしくしていろ、という無言の圧力。この社会に生きてきて、感じることはありませんか?
人前にいるときの私と、一人でいるときの私のギャップを知られるのが怖かった
私はずっと、「ピアニストなのに抑うつ」というのが心に引っかかっていました。自分のやっていることを、どうも堂々とまわりに公言出来なかったり、告知をするのが後ろめたかったりすることがあったのですが、一つの要因がこれです。
人前ではまったくの普通に振る舞えます。演奏中は笑顔で明るいですし、演奏の合い間にはお客さんと普通にお喋りもできる。つまり抑うつにかかってる人間らしくない。
でも、その裏で家に返ったらもう無気力になって、ベッドに倒れ込んで何もできない自分も確かに存在します。ふとした時に理由もなく泣きたくなって部屋で一人欝々と過ごしている日もたまにあります。そんな風に、人といるときと一人でいるときのギャップが激しいんです。
で、このブログはどちらかというと一人でいるときの私の内面が色濃く出ています。だから、表ばかりを見せてきた人にはここを見られるのがとても怖かった。「げ、あんなに明るく喋ってたのにめっちゃ病んでる人やんww」「めっちゃ病んでるブログ書いてるけど、実際は普通に振る舞えるんやしただの被害妄想やろww」と思われてそうな気がしたから。
まさに、周りの人が思うイメージに振り回されている典型例でした。
もうイメージの幻想にとらわれなくてもいいんじゃないかと思えてきた
でも、先の記事を読んで、もうどうでもいいような気がしてきました。だって、私は私だもの。そんな幻想に縛られて自分を出せないでいるのは、とてももったいない気がしてきた。
でもこういう声って、「うつってこういうものなんじゃないの?」という勝手なイメージが作り上げた幻想なんだね。
でも今の社会はこの幻想を真実として捉える見方・中身を見ずにイメージや立場だけでものを語る見方が当たり前になりすぎてるから、幻想だと気付けずにとらわれてしまうんだね。
— miso@8/3 LE音楽会 (@miso35miso) April 19, 2018
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