長きにわたって男女格差への想いを書いてきましたが
「保育園が足りない」というツイートから男女の働き方にまで話が及んだこちらの記事↓
この問題に関しては個人的に思うことがいっぱいあるのでついつい筆が進んでしまうんですが、ひとまず連載を一段落させた後で思ったんです。
筆が進む割には、おもしろくねぇぞこれ(´・ω・`)
あれ?
こういう「物申す」的な記事を書いているときって、書きながらどんどんと思考が湧いてくるのを文章に起こす、という作業になってるんですけど、実は後半2記事くらいはもう自分の脳に対して「あー早く終わってくんねーかなー」なんて思ってたんですよ、おかしくないですか?(゜д゜)笑
思い浮かんだことをそのまま捨て置いておくと頭の中に残りっぱなしで気持ち悪いから書き出してるんですが、それにしてもそれをブログにそのままぶっつけてしまって果たしてよかったんだろうか、というのと、そもそもブログは自分の思考の整理のためにやってるんだからいいじゃん!っていうのとがガチンコ勝負中であります(´・ω・`)
評論家になってしまっていた私
この「面白くなさ」について少し考えてみると、結局「自分の外に起こってる現象を観察者のような立場で書いていた」からのような気がします。
というのも、たまたまウェブマガジンサイトのcakesでこんな記事を読みまして。(おそらく2018年2月20日ごろまでは無料で読めるはず。急げ!)↓
日本社会の格差について分析したMay_Romaさんによる文章なんですが、注目したいのはその内容そのものよりも、最後の行に書かれていた言葉。引用しますと、
格差が悪いと嘆いていても、自分の雇用は守られませんし、資産を増やすことはできません。評論家でいるのをやめ、主体的に行動を起こすときなのです。
評論家でいるのをやめ、主体的に行動を起こす。
はっとしました。
主体的な行動が伴わないと意味がない
たしかに「何かあったら女の人は結婚して辞めればいい」問題の記事を書いているときの私は、男女の格差がどう、保育園がどう、と現状の問題を指摘するだけの評論家気取りになっていたなぁと、少し恥ずかしくなりました(´・ω・`)
前半こそ自分の経験に基づいて書いていたからまだよかったものの、後半の尻切れトンボ感否めませんし・・・
別に問題提起をして評論すること自体はいいんですけどね。先のMay_Romaさんもこの言葉の直前に「日本人はこのような世界的な格差拡大自体を自覚し、どうしたら自分の生活を守れるのか、資産を増やすことができるのか、富裕層をよく研究したほうがよろしいように思います。」と言っているので、現状認識・問題提起・分析はむしろやるべきで。
ただ問題はそこからどうするか。その問題があると自覚したうえで、じゃあ自分はどうするのか?どう行動していくのか?
そこが抜け落ちてしまうと、結局何も変えられないままイタイ評論家気取りで終わってしまうんだな、と改めて教えられた気がします。
外側をキレイに評論する文章よりも、内面を深くえぐる文章を
思えば「夢を追って会社を飛び出した結果、抑うつ症を再発させたとある20代女のお話」を書いていた時は、これとは対照的な心境でした。
この連載は私の個人的な悩み、生き様、それによって感じたことを書く、という極めて狭い範囲の記事でした。
ひたすらに自分の「内側」と向き合って、自分の弱くて情けない内面を淡々と掘り起こしていくような、ある意味「エグイ」文章だったんですが、どうも私が書く文章はこっち方面のほうが反響が大きいんですよね(゜ω゜)
自分の外側の現象を「これはこういうことですねっ」っとキレイにまとめるのと、自分の内側のドロドロした感情をドロドロのまま差し出してみるのとでは、やはり後者のほうが刺さる人には刺さりやすい、ということでしょうかね。そしてそれが私のブログの強みであると、かのjMatsuzakiさんのブログに寄稿した時に仰って頂きましたし・・・(´ω`)
「お得な情報」が敷き詰められたブログより、「辞書のような網羅性」が確立されたブログより、「個人的な日記」が徒然なるままに書かれたブログより、無名の個人の挑戦が生々しく刻まれているドキュメンタリーこそ人を行動へと駆り立てる第一運動になり得るものであり、個人ブログの真の面白さでしょう。
やっぱり私は、内面をどんどん明るみに出していく方向で文章を書いた方がいいみたいですね。また一つ、自分の方向性が定まった気がします。
ただ「無名の個人の挑戦が生々しく刻まれているドキュメンタリー」を書くのって、さっきも書きましたがかなり「エグイ」作業なのでめっちゃ精神エネルギー使うんですよね!(´д`)笑
MPとHPに余裕があるときじゃないと書けないのですが、今後も出来るだけそういう文章を書いていけるように頑張りたいと思いますので、気長に見守っていてくださると幸いです!
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