またまたTwitterを流し読んでいたら大きな気付きに出会いました。
お母さん自身の「我が子がしあわせでいてくれないと(私が)困る」という依存的な在り方が、無意識の内に子どもの首を真綿で締めあげていく。子どもはお母さんがしあわせかどうかの責任を、知らないうちに引き受けてしまうから。
— 心理カウンセラー 三浦望 (@hr_m_nozomi) April 27, 2018
こういう自分にとって大事な気づきが突然ふっと目の前に現れるからTwitterは侮れない。
もくじ
「あなたには幸せになってほしい」の罠
とてもとても深い納得…そうかだからお母さんがよく言う「misoちゃんには幸せになってほしいから」は重かったんだな… https://t.co/DifTcfVrLC
— miso@8/3 LE音楽会 (@miso35miso) April 27, 2018
「misoちゃんには幸せになってほしい」
私のお母さんはよくこう言ってくれます。それは子を持つ親としては当たり前の感情だろうし、私もそうやって想いやってくれることがとても嬉しく思っています。
ただ一方で、なぜかそう言われることに、よくわからない居心地の悪さのようなものも感じていました。嬉しいのと同時に。
それが何なのか、いままでずっとよくわからなかったんですが、先のツイートでようやく腑に落ちました。
「あなたが幸せになってくれるのが私の幸せ」うん、それはそうなんでしょう。でもそうやって言われ続けることによって、私は私自身が幸せになるためというより、「お母さんを幸せにするために私は幸せにならなくちゃいけない」という風になっていたんですね。
自分の幸せが目的ではなく、人を喜ばせる手段になっていた。そういうことなんですね。
「あなたが幸せじゃないと、親の私が不安だ」というメッセージ
我が子には幸せになってもらいたいという気持ちは親心としては当然なんだろうけど、「misoちゃんには(私が思う)幸せになってもらいたい(なぜならそうじゃなければ私が不安だ)から」になっちゃってるから重いんだよなぁ。でも向こうは「親として当然」と正当化してくる(´Д` )
— miso@8/3 LE音楽会 (@miso35miso) April 27, 2018
このよくわからない居心地の悪さについては、多分親は理解できないだろう。だって、そういう期待がプレッシャーになっていることに気付いてないだろうし、仮に気付いたとしても「親が子供の幸せを願うのが何がおかしいんだ」という態度で来られるだろうし。
その実が「子供がグラグラしているのを見るのを私(親)が耐えられないから」ということを突きつけられたとしても、きっと受け入れられないんじゃないかなと思います。だからあえて私ももう一生懸命説明したりしない・・・(´・ω・`)それくらい、私は正直もう諦めかけてます(泣
「幸せなあなた以外は認めない」という否定
これは「幸せそうなあなたは認めるけど、幸せそうじゃないあなたは認めない」という一種の否定にもなる。苦労や失敗、病気などのネガティブ要素は許されないことになるので、それを必死で避けようとして頑張り続けて結局壊れる。でも壊れた自分も認めてもらえないのは同じ。自己否定のループ。
— miso@8/3 LE音楽会 (@miso35miso) April 27, 2018
「(見ている私が不安だから)あなたには幸せになってほしい」というのは、実質は「幸せになってもらわないと困る」という強制。
つまり、幸せでなければ認めてもらえない。失敗してもいいよ、大丈夫だよ、ではなく、失敗したらダメだよ、いつもニコニコしていなくちゃダメだよ、という強制。
このあたり、やっぱり子供が取り組むべき問題を先回りして片づけてしまうカーリングペアレントらしい思考だなぁと思いましたね(´・ω・`)
また、失敗した自分を受け入れることが出来ませんので、過度に完璧主義で自分に自信が無く、人からの言葉に傷つきやすく、些細なことでいつも自分で自分を責めてしまいます。
さらに、親に対して『失敗した自分は受け入れてもらえない』と無意識のうちに受け取ってしまうので、親子間の信頼関係はありません。
「親がどれだけ頑張ったか」と「子供が実際どう感じたか」は本来別の問題
ここで「認めてもらえる・もらえない」が相手軸になってることに気付く。普通の人ならそんなの自分の勝手にすればいいじゃんと思うだろうけどなかなかそれが出来ないのがAC。なぜなら子供の頃から無条件に愛されたという実感がないから。その実感を大人になった今でも求め続けてる。
— miso@8/3 LE音楽会 (@miso35miso) April 27, 2018
ここで重要なのは実際に何かされたかどうかじゃなくて、愛された「実感」。たとえ親が愛情の延長で色んなことをしてくれたとしても、それが条件付きだったり子供の意図するものでなかったりすると愛された、受け入れてもらえたという「実感」がない。だからすれ違う。
— miso@8/3 LE音楽会 (@miso35miso) April 27, 2018
そう、大事なのは「子供自身がどう感じたか?」なんですよ、本当は。
親が親なりに色々考えて、精一杯子育てに尽くしてくれた。それはもちろん私たち子供だって重々承知なんですよ。
でもそれが、子供が求めている無条件の愛情とは実は違う物だった、というのは残念ながらあり得るんです。親がいくら一生懸命だったとしても。子育ての正解なんてないし、第一子だったのならなおさらです。
子供にとって本当にためになるのはAなんだけど、親はBを一生懸命やってしまった。子供もBでいいやって無意識に思い込んでた。それが大人になってやっと「やっぱりAが足りなかったんだ!」と気づくことが出来たけど、親は「私たちは一生懸命やったのよ!頑張って愛情いっぱいにあなたを育てたのよ!」の一点張り。構図としてはこんな感じでしょうか(´-`)
「親がどれだけ頑張ったか?」というのと、「子供が実際どう感じたか?」というのは本来分けて考えなくちゃいけない。これ重要ポイントです(`・ω・´)
親が幸せかどうかの責任を、あなたが背負う必要はない
というわけで、Twitterでふと目にした以下の呟きから考えたことを書いてみました。
お母さん自身の「我が子がしあわせでいてくれないと(私が)困る」という依存的な在り方が、無意識の内に子どもの首を真綿で締めあげていく。子どもはお母さんがしあわせかどうかの責任を、知らないうちに引き受けてしまうから。
— 心理カウンセラー 三浦望 (@hr_m_nozomi) April 27, 2018
要は、「親が幸せかどうかの責任を、あなたが背負う必要はない」ってことです。
もうそろそろ、自分のために生きる勇気を持ち始めないといけませんね(´-`)
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